2017年12月2日土曜日

シャリヤと悪魔の証明

 
 世の中にはリパライン語が五年間以上非アポステリオリであることを指向する創作であることをみて、その言語中にアポステリオリ性を見つけ出そうとしている意地の悪い人が良くいる。「別にアポステリオリであることをいうことで非難しようと思っているわけじゃないんだけど」と思っている人のために悠里とその中核の創作思想的変遷から見ていきたいと思う。
 悠里とその中核が興隆したのは2013年から2014年頃である。リパライン語三代目のログやセレン・アルバザード氏の逮捕時点から原始悠里が存在していたことから考えるとそれより前からあったと考えてもよい。KPHT=YYとFafs falira sashimiはその創作的観点にセレニズム時代から強くセレン主義に影響を受けた。アポステリオリよりアプリオリの方が高度な創作であるという思想をもってアプリオリであろうと言語を作り続けたが、一方でアルカに対して反感を抱き、反アルカ主義を標榜した。そうして、悠里は2016年以降s.y.の加入を元に広く発達してきたわけだが、界隈の体質としてアポステリオリであるという指摘に対して非常に敏感になってきたといえる。現在ではアポステリオリよりアプリオリ指向であることが崇高であるというような思想は悠里は持ち合わせていないが、基本法に記述される通り、「現実世界の構造の流用のうち、悠里のアプリオリ創作の原理を破壊する恐れがあるようなものは禁止される。」ためアポステリオリと確定された創作物は改定また真理設定からの排除が行われる(「古理字存続論争」や「改定前ファスマレー」などが好例)。このように悠里がアプリオリ創作であることにより、一つの創作界隈及びその創作のアイデンティティを保ってきたことは明白である。アポステリオリ指摘はこのアイデンティティを危機にさらすことになり、悠里が悠里で無くなる可能性、さらに中核のそもそもの個人個人の創作的アイデンティティを脅かす。このために悠里勢はいわば攻撃的とも受け取れる安易なアポステリオリ指摘に対して敏感に反応し、対抗するのである。

 そもそも、セレン時代ではセレン・アルバザードがどう言っていたかにしろ、一般的にアプリオリ・アポステリオリは明確に区別できるものであると考えられていた。しかしながら、ポスト・セレニズムの時代となり、人工言語学会が興隆するなどするとそもそもの人工言語分類であるセレン分類に対して疑問を投げかけることになった。ここまで来ると完全なアプリオリ言語は存在せず、全ての言語は本質的にアポステリオリ言語であるという考えも生まれた。セレニズムに基づくアプリオリ・アポステリオリに対する定義に対する懐疑主義はポスト・セレニズム時代における新たな人工言語分類であるモユネ分類にも表れており、当初はあった他の言語を意識的に参照することを志向するPRO、他の言語を参照することを志向しないが、作者自身の文化や言語からの影響を積極的に取り除くことも志向しないNPO、他の言語を参照しないことを志向するAPRは廃止され、他言語の流入/流用に対して忌避的か歓迎的か、それに対して傍観的立場か介入的立場か、それらに対してもはや寛容・無頓着かという分類に明確化された。突き詰めればそもそも人間が作った言語はアポステリオリであるので、アポステリオリかアプリオリかという議論自体が無意味なものでもあるのだ。この思想は悠里においても大きな影響を与えた。

ところで先述のアポステリオリ指摘の内容の例を見てみよう。

 マハーバーラタにはシャリヤ王という名前の王が存在する。サンスクリットでは、शल्यと表され、原義は「尖った武器」らしい。ナクラとサハデーヴァの妻であるマードリーの兄弟であり、マドラ王国の支配者であり、クル軍に味方した。 ローマには、ネロ・クラウディウスという皇帝がおり、そのクラウディウス氏族の女子にはクラウディアという名をつけられたという。
 これらのような根拠から『異世界転生したけど日本語が通じなかった』のシャリヤがこのシャリヤ王から来ているだとか、kladi'aという名前はクラウディアという名前から来ているのだとかいう主張がなされる。しかし、実際のところは以下の通り説明がなされ、全く関係ないと証明される。

単語(語義) - 似た発音の現世の単語 - 実際の語源
kladia(クラディア、名前) - クラウディア氏族 - 古理語cladie、シ祖語*klu-æɳdiə(来るもの)
xalija(シャリヤ、名前) - シャリヤ王 - こちらを参照されたい(ちなみに細かいことだが、サンスクリットの方はśalyaで、いせにほの方はxalijaである。お前の推論はカタカナに影響されている。)
dodor(馬) - どうどう - 不明
fqa(これ) - quīの女性単数奪格quā - 古理語fghpha(これ)、理祖語では*həgʰʔæs(あれ、これ)
larj(捏造) - 英語lie - 古理語aloaj(作る)
kacel(キャンセルする) - 英語cancel - 淮語kakècails、その語源は古理語lnkuk cel(失わせる)

 だが、人々はまた「そのようにこじつけて引用、参照したことを隠しているのだ。」という。例えばkacelを上げれば「古理語だの淮語だの適当な語源を掲げるが、語形変化に英語のcancelが関わっていることは火を見るよりも明らかだ。」という程度の指摘だ。言語の話を始めれば、この語形変化はそも古理語から淮語への音韻変化で/ln/が落ちたのはLの母音化という現象で[ln] - [əln] - [əɫn] - [əwn] - [ə̃] - [ə] - øというような流れを経たと考えられるし、kakècails([kaksɛl])の語中の[k]が落ちたのはヴェフィス語で母音の付かない末子音s,t,kが落ちるが、その後にèが付く綴りの場合読まないこの単語をリパライン語話者が過剰修正して借用したためであり、すべての変化は自然に見えると順序だてて解釈できる。しかし、このように理詰めの説明をしたとしても「英語のcancelに似せるために理詰めのこじつけをした。」という主張には反論できない。しかし、もし十二平均律に見る「アプリオリ創作の原理」に見られるように「結果として現世の構造が反映されているが、それの採用には十分な合理性が認められると考え」られ、その音形、語形の導入がなされたとして、cancelの語形に合わせる十分な合理性は不明であり、そのためにアプリオリ創作の方針を崩す方が我々にとっては謎である。
 ここまでくると語形に合わせた、音形に合わせたかどうかの意図の有無の問題になってくるが、だいたい人間の意図の有無を証明することは悪魔の証明である。

 素人でも玄人でも何かの単語に何かをこじつけて起源説を主張することは良くあることである。先人が行ってきた偉大なる所業を見ればよくわかることである。現代に関わらず古代でもである。このことを話したところj.vが資料を見せてくれた。
しかしながら、古代及び中世の文法家、哲学者の方法は、なんらの組織をもたず、ただ意味と形態の相似によって出まかせに語を比較したものが多かった。彼らは少しくらいの音韻や語形の相違は自由に無視する。方法論的に制約されない想像は奔放をきわめ、連想は次から次へと躊躇なく遷った。(中略)古代の語原(注:原文ママ)学者は音韻の有する意味上の価値(例えばlは平滑、nは、口腔内で発音されて外に出ないから、内的なものを表わすとするがごとき、音韻による疑似、転意、対意(例えば黒は白に対立するがゆえに、白をも同様に表しうるとするがごとき)を自由自在に使用し、さらに婉曲法により類推して、人間の心に嫌悪の感を抱かしめるものは、これを対意によって、すなわち反対の観念によって表わすとなし、例えばラテン語のbellum「戦争」はbellus「美しい」に語原をもつと考えた。(比較言語学入門 [高津春繁, 1992, p179-180])
人間はこのようにしてその根源が何なのかギリシャ哲学の時代から全世界で突き止めようとしてきた。人間にそのような性質があるとも感じられるものである。しかし、何でもかんでもこじつければいいというものではない。自然言語ならまだしも、アプリオリ指向の人工言語なら人の創作物をパクリというのと同じように聞こえるのだから。

《後日談》
LED(@pax_lucis)さんからの言及



ちなみに文脈としてはこれが関係している。

参考文献
https://en.wikipedia.org/wiki/Shalya
https://en.wikipedia.org/wiki/Claudia_(gens)
バガヴァット・ギーター(上村勝彦, 1992)
https://togetter.com/li/849695
比較言語学入門(高津春繁, 1992, p179)
http://www2.ngu.ac.jp/uri/gengo/pdf/genbun_vol2402_14.pdf
ニューエクスプレス ヒンディー語(町田和彦, 2008)
http://l118.let.kumamoto-u.ac.jp/javascript/roma.html

略語
  • 淮語……ヴェフィス語
  • 理語……主に現代標準リパライン語を指す。
  • 古理語……古典リパライン語
  • シ祖語……シアン祖語再構
  • 理祖語……1893年再構形リパライン祖語
  • 基本法……悠里総合創作秩序維持基本法

更新
20171202 書き終わり
20171231 《後日談》を追加

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